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蓮實重彦「ジョン・フォード論(序章)」(「文學界」2019年12月号)

私もクエンティン・タランティーノ側の人間だが、蓮實氏の論考を取り上げたい。

 

タランティーノ批判から。

(タグ・ギャラガーは)は「具象化されたモノノナミダ」≪Lacrimae Rerum Materialized≫というヴェルギリウスに想をえた題名の回想録―これまでの記述は、それに多くを負っている―で、この時期のニューヨークに住むものたちの多くは、「フォードを憎悪する道徳的な義務感」≪a moral duty to hate Ford≫を覚えていたと述べている。なぜなら、「フォードの作品は、人種差別、軍国主義、家父長制、愛国主義、感傷主義、絵に描いたような古くささ、図式化された因習主義を祝福しているといわれていたからだ」

(中略)

 いまなおそうした時代遅れの「道徳的な義務感」に囚われているのが、優れた映画作家と呼ばざるをえないクエンティン・タランティーノ Quentin Trantinoであることは、触れておかざるをえない。
 自作の『ジャンゴ 繋がれざる者』(Django Unchained, 2012)をめぐる≪The Root≫誌のインタビューで、タランティーノは、「自分にとって、アメリカ西部劇のヒーローは、間違いなくジョン・フォードではない。ごく控えめにいっても、このおれは彼を憎悪している」と述べている。
(中略)
 タランティーノのこの「暴言」をめぐっては、「フィルム・コメント」≪Film Comment≫誌の2013年5/6月号の「イントレランス」≪Intolerance≫という長いテクストでケント・ジョーンズ Kent Jonesが詳細に批判しているので、それにつけ加えるべきことは何ひとつ存在しない。

 

ストローブがフォードの「天啓」を受けた『アパッチ砦』。

(ヨーク大尉(ジョン・ウエイン)にしてみれば)資質を欠いた無能な指揮官による文字通りの「自殺行為」にほかならず、その愚かな命令によって兵士たちは犬死にしたに等しく、その悲惨な光景に、彼は遠方から望遠鏡でむなしく立ちあうことしかできなかった。
 そうした思いをいだいているにもかかわらず、「そう、まさしくその通りでした」とあからさまな虚言を弄してまでサーズデー中佐の偉大さをいいたてねばならない軍隊という組織の一員である自分自身への深い諦念を、フォードはみごとに描いて見せたとストローブはいいたいのである。だから、その場面は、一部の論者たちが勘違いしたように、ハッピーエンドによる「軍国主義」の賛美などではなく、むしろ悲惨極まりない事態の推移であると彼は確信したのであり、「天啓」とは、まさしくその確信をもたらした画面そのものの力にほかならない。

 

 フォードが描いてみせるヘンリー・フォンダの最期の勇姿は、その「自殺行為」の責任を取ろうとして身がまえる男を賛美しているとまではいえぬにせよ、その人格的な尊厳だけは救おうとするかのような光景だからである。

 

(中略)

 

 ジョン・フォードという監督は、かりにそれが非難さるべき人物だったとして、その最期の一瞬を悲壮な峻厳さで彩ることができるほど、鷹揚かつ寛大な監督なのだ。そもそも『若き日のリンカーン』(Young Mr. Lincoln, 1939)、『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath, 1940)、『荒野の決闘』(My Darling Clementine, 1946)、『逃亡者』(The Fugitive, 1947)などで典型的なフォードの人物を演じさせてきた役者を、ここでたんなる「悪役」として無惨に葬ることなどできるはずもなかったのである。それを、ハリウッド的な「スターシステム」への安易な妥協とすべきとは思えないが、その最期を華麗に彩ることは、監督としてごく当然のことであるはずなのだ。あるいは、ある意味で妥協をも恐れぬ大胆かついい加減な映画監督が彼だといってもよい。その点で、フォードは、批判さるべき階級に属する人間たちでさえ魅力的に描ききってしまった『ゲームの規則』(La Règle du Jeu, 1939)のジャン・ルノワールのように、すべてを抱合する非=排他的で鷹揚な映画作家だといえるかも知れない。

 

 とまあ蓮實重彦はフォードを擁護しタランティーノを批判しているが、世代の違いと言ったらそれまでかもしれない。

 ボブダノヴィッチの『インタビュー ジョン・フォード』で、フォードはサーズデー中佐とその部下について、たとえおかしな上官のおかしな命令でもそれに従うことが正しい、ベトナム戦争もそうであるべきだ、という主旨のことを言っている。

 だがベトナム戦争以下の世代にとってはこうした発言は到底承服しがたい。上官の命令が間違っているならそれを覆すまで抵抗することが大切なのだ。事実、ジャーナリズムや反戦運動が戦争を止めたのだし、止めなければ自分の命もベトナム人の命も無駄になってしまうのだ。フォードにも先住民側の視点は描かれているが、いくら悲哀がにじみ出ているとはいえ最後のジョン・ウエインの戦死の美化ともとれる台詞はナイーヴに聞こえてしまうのである。

 というわけで蓮實重彦が「時代遅れの「道徳的な義務感」」と呼ぶものは時代遅れでも何でもない。ベトナム戦争以降、極めて重要な基本的原則だ。原題の諸問題をジョン・フォード的に描けるわけがない。

 

 といっても現代の価値観で「忠臣蔵」を「古き因習」と批判するのがバカげているのと同様、ジョン・フォードの映画もその時代の優れた作品として鑑賞することは意味のあることだ。

 ジョン・フォードも出演したことで知られるD・W・グリフィスの『国民の創生』までは「時代遅れの「道徳的な義務感」」のせいか、まだ見られずにいるが。