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村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』~1959年と1960年の違いは本当にどうでもいいのか?

 

中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)

中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)

 

 

 村上春樹の『中国行きのスロウ・ボート』は、「最初の中国人に出会ったのはいつのことだったろう?」という一節で始まる。
 この問いかけに対する答えが気になる。

 さて最初の中国人に出会ったのはいつのことであったか?
 一九五九年、または一九六〇年というのが僕の推定である。どちらでもいい。どちらにしたところで違いなんてたいしてない。正確に言うなら、まるでない。僕にとっての一九五九年と一九六〇年は、不格好な揃いの服を着た醜い双子の兄弟のようなものである。実際のところタイム・マシーンに乗ってその時代に戻ることができたとしても、一九五九年と一九六〇年を見分けるためには僕はそうとう苦労しなくてはならないだろう。

 村上春樹の特徴は、浅く読んでも面白いし、深読みし始めるとまたキリがないほど面白く読める点にある。
 この初期の短編の書き出しもその特徴がはっきり出ている。
 「不格好な揃いの服を着た醜い双子の兄弟のようなもの」というような村上春樹っぽい独特の比喩表現はそれ自体面白い。が、ちょっと立ち止まって考えると、このくだりは、さらりと書いてあるようで、かなり挑戦的なことを(おそらく文壇に)突きつけているのだ。

 「一九六〇年」と言えば、もちろん60年安保の年である。
 『中国行きのスロウ・ボート』は「海」1980年4月号に発表されているが、当時は吉本隆明やら柄谷行人やら、その他、60年安保を闘ってきた言論人が文壇や論壇にたくさんいた。
 村上春樹学生運動が盛んだった早稲田大学でさんざんオルグされたりしたことだろう。
 しかし村上春樹は「一九五九年」(安保前)も「一九六〇年」(安保後)も違いは「まるでない」と言い放っているのだ。

 一言でいえばノンポリということだろう。だが、どうでもいい話にわざわざ遠まわしに言及するのは、ただのノンポリではなく、相当な思いがあると考えざるをえない。
 そういった村上春樹の政治に対するスタンス、あるいは文壇、論壇に対する距離感は見事と言うしかないほど一貫してきた。その後、オウム事件などにコミットし始めるが、文壇や論壇の既得権益層(?)に対する距離感は相変わらずだ。

 

 冒頭の引用部の後、村上春樹安保闘争について無視し続けて、

 そう、それはたしかヨハンソンとパターソンがヘヴィー・ウェイトのチャンピオン・タイトルを争った年だった。

 今でこそNHKも朝日新聞もトップニュースにスポーツを持ってくるのが当たり前になったが、1980年当時は「政治の季節」の余韻が残っていて、スポーツの文壇、論壇における地位は今よりも格段に低かったはずだ。安保よりヘビー級のタイトルマッチの方が重要だなんて、知識人の間ではありえないことだったろう。

 ちなみに調べてみると、インゲマル・ヨハンソン(スウェーデン)とフロイド・パターソン(米国)は1959年6月26日、1960年6月20日、1961年3月13日に1度ずつ戦っている(59年の対戦ではヨハンソンが勝ったが、60年、61年の対戦ではパターソンが勝った)。
 つまり、「図書館に行って古い新聞年鑑のスポーツのページを繰ればいいわけだ」という「僕」の考えに反して、新聞年鑑を調べても答えは出ないのだ。

 だが、ここで驚きの事実が判明する。ヨハンソンとパターソンが2度目に対戦した1960年6月20日は、まさに安保条約が自然成立した6月19日の翌日にあたる日だったのだ。その前後は、安保闘争がクライマックスを迎えていた。それは「新聞年鑑」を繰れば一目瞭然だろう。
 そこまで書いておいて、安保に全く触れないのは、これはどう考えても確信犯である。