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抑えの利いたサスペンスの秀作『ビッグ・ピクチャー 顔のない逃亡者』

 

 

 ロマン・デュリス主演だが日本では劇場未公開。WOWOWで放送された後、DVD化された作品。

 主人公ポールは、妻の不倫相手を殺してしまった後、その男になりすまして、子供のころからの憧れだった写真家として新たな人生を送り始める…。「太陽がいっぱい」を彷彿とさせるサスペンスだ。

 『真夜中のピアニスト』『スパニッシュ・アパートメント』『ムード・インディゴ』などと同様、この作品でもロマン・デュリスは悩める男を好演。切実な自分探しを続ける。
 …というか、この作品では「顔のない逃亡者」という副題が示すとおり、自分探しを超越して、自分を探したいのか、それとも自分を消したいのか自分でもよく分からず、あがき続ける主人公が見ものだ。

 抑えが利いた演出で、編集がクール。そして映像も美しい。主人公は写真家志望で写真を撮り続けるが、その写真の美しさも本作品に説得力を与えている。劇場未公開というのがもったいなく思える。

 この作品を手掛けたエリック・ラルティゴ(Eric Lartigau)監督は、他にも何本か監督しているが、日本ではいずれも未公開。

 でも2014年の「エール!」は日本公開されてよかった。 

エール! [DVD]

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  ダグラス・ケネディの同名小説が原作ということで、こちらもチェックしたい。

 

ビッグ・ピクチャー (新潮文庫)

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決して単なる感動作ではない『ギルバート・グレイプ』

 

 『ギルバート・グレイプ』は、アイオワ州の「何も起こらない」小さな田舎町エンドーラが舞台。主人公の青年ギルバート(ジョニー・デップ)は、自閉症の弟(レオナルド・ディカプリオ)や引きこもりの母を養っている。

 初見時は、宣伝文句にありがちな「厳しい家庭環境でもたくましく生きるグレイプ家の人々を詩情豊かに描いたハートウォーミングな感動作」という漠然とした印象以上のものはなかったが、観直すと、本当は怖い作品なのかもしれない気がした。

 邦題は『ギルバート・グレイプ』だが、原題はWhat's Eating Gilbert Grape。「eat」を「苛立つ」と解釈すると、「ギルバート・グレイプを苛立たせるもの」と訳になる。すると、田舎で燻っているギルバートがだんだん自分の苛立ちを自覚し、ついには弟と町を出るという、閉塞的な環境における青年の「苛立ち」というテーマが浮かび上がる。

 ところで、動詞の「eat」をそのまま「食べる」と受け取り、「ギルバート・グレイプを食い尽くしていくもの」と訳すと、また違った面が浮かび上がる。
 トレーラーに乗って旅しているベッキー(ジュリエット・ルイス)がギルバートにこんな話をする。

「(カマキリが)どう交尾するか知ってる? オスがメスに忍び寄ると、メスはオスの頭を噛みちぎるの。オスの体は交尾を続けるんだけど、交尾が終わるとメスは残りの体も食べちゃうのよ」
(You know how they mate? The male will sneak up on the female, and she'll bite off his head. And the rest of his body will keep on mating. And then when they're done, she'll eat him. She'll eat the rest of him.)



 他愛もない駄弁に聞こえるが、このベッキーのセリフが『ギルバート・グレイプ』を象徴している。
(予告編にもこのセリフがわざわざ抜き出されている)
 『ギルバート・グレイプ』には、カマキリのオスのように早死にする男が多い。ギルバートの父は7年前に自宅で謎の自殺を遂げる。ギルバートが不倫のお相手をしているカーヴァー夫人の夫も、夫婦ゲンカをした日に心臓発作で突然死する。まさに、この作品は、町に定住する女性たちが男性たちに足かせを嵌め、時には命をも奪うような、カマキリの雌雄の構造でつくられているのだ。
 そして、ギルバートも新しい「カマキリのオス」になろうとしている。ギルバートは引きこもりの母を養い、カーヴァー夫人のお相手をして、無為に若い歳月を浪費している。そんな生活がギルバートの人生を蝕み、食べ尽くそうとしている。
 劇中でカマキリのメスを具現しているのは何よりもカーヴァー夫人だが、ギルバートの母もそれに該当する。自殺の理由は明かされないが、夫に先立たれて以降、ギルバートの母は家に引きこもり、日常生活も困難なほど太ってしまっている。肥満という設定は恣意的に思えるが、こうやって考えてみると、はっきりと「eating」と結びついているではないか。つまり、『ギルバート・グレイプ』を「male/female」の二項対立で考えた場合、ギルバートの母は、町に定住してmaleを従わせる「カマキリのメス」的なfemaleの象徴的存在なのだ。

 だが、この小さな町におけるmale/femaleの構造はベッキーによって打ち破られる。ベッキーは女性でありながら遊牧生活を送っていて、「カマキリの雌雄の構造」からはみ出した存在だ。ベッキーの登場後、ギルバートの母は自ら死を選ぶような形でギルバートをカマキリの主従関係から解放してやることになり、ギルバートは弟と共に町を出ることになる。まさに、葡萄(grape)が房から離れていくように。

 『ギルバート・グレイプ』は小さな田舎町が舞台だが、大型スーパーが進出するなど、昔ながらの共同体が崩壊していく様子も描かれている。
 そういった観点からも『ギルバート・グレイプ』を論じられるかもしれないが、理詰めでいろいろ論じたところで、なかなか魅力を言い尽くせない。つまり、作品自体が「カマキリのオス」のように消費されるだけで終わらないのが『ギルバート・グレイプ』の魅力でもある。

 

【製作】メイア・テペル、ベルティル・オルソン、デビッド・マタロン
【監督】ラッセ・ハルストレム
【原作・脚本】ピーター・ヘッジス
【撮影】スヴェン・ニクヴィスト
【音楽】アラン・パーカー、ビョルン・イスフェルト
【出演】ジョニー・デップレオナルド・ディカプリオジュリエット・ルイス ほか
製作国:アメリ
製作年:1993
原題:WHAT'S EATING GILBERT GRAPE
備考:英語/字幕スーパー/カラー

 

(※旧ブログから転載、加筆しました)

ギヨーム・カネの監督デビュー作『Mon Idole(僕のアイドル)』(2002)

 俳優ギヨーム・カネの監督デビュー作『Mon Idole(僕のアイドル)』(2002年仏)は、テレビ業界の内幕を滑稽に描いた意欲作。

 新米ADが憧れの大物プロデューサーに新番組の企画を売り込み、業界での成功を掴もうとする、という粗筋。言うなれば、オリヴァー・ストーン監督『ウォール街』の舞台をNYの証券業界からパリのセレブ界に移したような設定だ。

 『ウォール街』で「欲望は善。欲望は正しい」と演説を打って異様な存在感を見せるマイケル・ダグラス同様、『僕のアイドル』のカリスマプロデューサー(フランソワ・ベルレアン)の存在感も強烈。

 前半では堅固だった師弟関係が後半に入って綻び、裏切り、失望、憎悪、絶交へと繋がっていくストーリーも一緒。ただし、最後までシリアスな『ウォール街』と違い、『僕のアイドル』は途中から荒唐無稽な乱痴気騒ぎになる。

 登場人物の業界人たちは、映画の冒頭で自分たちが企画していた視聴者参加型ヴァラエティー番組と同じ状況にハマる。番組に出演する無垢な一般人を煽り、茶化し、嘲笑う側だったのが、いつの間にか観客に嘲笑われる側に転じてしまうのだ。

 低俗番組を地で行くような終盤は好き嫌いが分かれるだろう。だが、各所にちりばめられたギヨーム・カネの映画愛が微笑ましく、当時の妻だったダイアン・クルーガーとの共演も見どころ。フランソワ・ベルレアンの名演も一見の価値ありだろう(でも日本ではDVDすら出ていない)。

 

 

 

 

悪魔が夜来る(Les Visiteurs du soir)

悪魔が夜来る [DVD]

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 マルセル・カルネ監督とジャック・プレヴェール個人的には「天井桟敷の人々」「陽は昇る」「霧の波止場」のほうが好きだが、この1942年の映画も味わい深い。

悪魔の使いであるジルがドミニクと共に国を荒らしに来るのだが、国の娘と恋に落ちる。そこに悪魔が登場、ジルと娘の仲を引き裂こうとする物語。

ジルは悪魔の使いなのに優しいところがある。冒頭で、熊を殺された熊使いに、熊を蘇らせてあげるシーンが一例だ。

 

Dominique : À quoi bon Gilles ?...

(余計なマネを)
Gilles : Ça m'amuse tout de même de faire le bien, de temps en temps...

(たまには善行もいいさ)
Dominique : À quoi bon Gilles ?...

(無駄だわ)

 

(和訳は字幕より)

アルレッティ演じるドミニクの立場は最後まで微妙なのだが、ジルは明らかに善側の男である。

 

善の側に立つジルに対し、悪魔の仕打ちは容赦ない。

この悪魔はヒトラーではないか、ナチスではないか、という説もあるようだが(昔話に現代の皮肉を託すのは作り手たちの常套手段だ)、カルネ=プレヴェールのコンビは「天井桟敷の人々」でも「霧の波止場」でも恋を引き裂く男を繰り返し登場させている。だから、この三角関係の構図はプレヴェールのオブセッションなのかもしれない。

 

デュラス「苦悩」、そして「あなたはまだ帰ってこない」

 

苦悩

苦悩

 

クニー:この映画でも、例えば « il nʼest pas plus raisonnable de penser quʼil ne reviendra pas que de penser lʼinverse » と、長いセリフがある。

ヨシ:「彼が戻らないと考えることと、その逆を考えること、そのどちらかにより多くの道理があるわけではない」。つまり「戻ってこないか、戻ってくるか、それはわからへんやないか」ってニュアンスかな。

クニー:それをワンカットの中に収めるためには、ごくごく短くするしかない。字幕はずばり「戻ってこない理由はない」だった。

(出典: https://webfrance.hakusuisha.co.jp/posts/1196

 

長谷川四郎「阿久正の話」

長谷川四郎 (ちくま日本文学全集)

長谷川四郎 (ちくま日本文学全集)

 

 

 1955年の阿久正は原爆と水爆を恐れる小市民だった。
第五福竜丸事件は1954年)
 2011年の阿久正はフクシマの放射能を恐れて、マスクをして通勤するに違いない。
 関西や九州へ移住するほど暮らしの余裕はないが、神奈川か山梨に引っ越して、少しでも被曝を逃れようとするかもしれない。


 …村上春樹の『若い読者のための短編小説案内』の最終章で、語学堪能だった異色の小説家という紹介がされてあったので、興味を持って読んだ。
 普通の市民の普通の生活を描いているようだが、核時代の恐怖を描いているようにも見える。でも、はっきりとしたことは何も明記されていない。
 重要なことをあえて書かず、抽象度を上げる(そして読者の想像の幅を増やす)、というスタンスは村上春樹にも通じる。

 そんな不思議な作品。

ジャック・ドゥミ「天使の入江」

天使の入江 ジャック・ドゥミ DVD HDマスター

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 ギャンブルを題材にした映画は少なくないが、この映画はジャンヌ・モロー(当時35歳)がルーレットにハマッたバツイチ女性を好演。ニースやモンテカルロといった南仏を舞台にしていて、ミシェル・ルグランの音楽が古き良きフランスの独特のムードを醸し出している佳作だ。


 ジャンヌ・モロー演じるジャッキーのギャンブル依存度が半端ない。「死刑台のエレベーター」といい、「突然炎のごとく」といい、ジャンヌ・モローはすごい。当時、こんな演技ができる女優は他にいただろうか?


 ジャッキーの名言を挙げたい。

(1)
賭けてるときの喜びは、他じゃ決して得られないものよ。
(La joie que j’éprouve au jeu n’est comparable à aucune joie.)


(2)
賭けの魅力は、贅沢もどん底もいっぺんに味わえること。数字や偶然の神秘も好き。神様が数字を支配してるんじゃないかって、よく考えるのよ。
(Ce que j’aime justement dans le jeu, c’est cette existence idiote faite de luxe et de pauvreté et aussi de mystère des chiffres… le hasard. Je me suis souvent demandé par exemple si Dieu régnait sur les chiffres.)


 冒頭で「ギャンブルは麻薬とは違う」というセリフが出てくるが、ジャッキーは完治不可能な依存症といっていい。
 だが、「天使の入江」は意外な結末を迎えるが、それを観客に許容させるのは他でもない、ミシェル・ルグランの幸福な音楽と、ニースの美しい海岸のおかげだろう。

  

 さて、「天使の入江」は2013年春にデジタルリマスター版が出来た。
 モナコで開かれたプレミア上映には妻のアニェス・ヴァルダも参加している。
 日本でも見られるようになってうれしい。